yozakura

先日、滋賀県の東光寺で、毎年恒例となりつつある、おどる落語の公演での音楽をやってきた。冬が終わり、春が訪れた花冷えもするこの桜の時期に、寺のお堂で、なんともいい演目なのである。今年は「夢の瀬川」という演目で、夢と現実の間をいったりきたりするようなものとなった。とてもいい公演だった。

木崎湖を出るときは、雪が降り、あたり一面が真っ白だった。もう薄着になったので余計に、寒い寒いと震えながら出発したが、ちょっと南下するとすぐに、ぽかぽかとした太陽の暖かさが感じられた。いつの間にか白い世界は春先の茶色い、まだ何もない、が秋とは違う、もうすぐそこにあらゆるものが待機しているという息吹の感じられる、赤味がかった茶色い景色が広がり始め、そうしているうちに、ポツポツとピンクの山桜が登場し、もうしばらく行くと新緑の薄緑まで混じってくる。
桜は満開、いい旅だなあと車を走らせた。やがて、薄ピンクの雪のような花びらが、チラチラと舞うようになる。
こうなるとどうにも切なくなってくる。

滋賀県東光寺のあたりは、散り始めの頃だった。
公演が終わり、演者の皆と夜の散歩に出かけた。川沿いを歩いてコンビニに向かったのだが、その川沿いをずっと続く、夜桜が見事であった。
この時期というのはどうしてこんなにも儚さを感じるのであろうか。
桜からはどうやら、クマノフマリという物質が出ていると一人が言う。よくわからないけれど体に良いらしくて、それを浴びるためのツアーがあるらしい。本当なんだろうか、聞いたこともないし、調べても出てこない。ひょっとしてちょっと胡散臭い何かかもと思いながらも、何かとクマノフマリのせいにしながら話が弾む。

夜の闇に白く浮き上がる桜の花びらがチラチラ散る中、てくてくと歩いた。永遠にこの道は続けばよいのにと思った。そんな今、この時にある胸の暖かさを感じると同時に、やがて消えていくものへの切なさとが重なって、どうしようもなく心から溢れるものがあった。
今回の旅は、久々に一人旅だったのもあって、忘れていた寂しさを感じてしまったのか、それとも
これこそ、クマノフマリのせいなのかしら?と思った。だって、心も身体も、とても動いている。
何を隠そう、その夜私は心溢れるものに翻弄され、ほとんど一睡もできなかった。

ずっとブログを書けないでいたのだけれど、書きたくなった。
毎年、今年こそ書くぞと意気込んで終わっているこのブログ。タイトル変えようかな。
寂しさや切なさというのは、心を溢れさせる。

ところで、クマノフマリ
あとで調べてみたら、フラノクマリンという物質だった。でもそれ以上は調べなかった。
この桜の旅路に私にスイッチを入れ続けたのは、おそらくクマノフマリである。
木崎湖の桜はまだまだこれから。もう少し、クマノフマリのシャワーを浴び続けられそうだ。