2011年10月

新た

思えば、私にとって1st albumを作ったことは人生の中でも大した山場であった。
それが終わって、でもしょげることもなくまたずんずんと新たに作っていたのだが、
どうも刺激がほんの少し足りない。悪くないがすごく良くもないのだ。
新たに生んでいるのだが、同じ線の上で生み続けているような不毛感。

挑戦することを忘れていた。
繰り返しの挑戦ではなくて、
自分にとってこれはないだろうということをやること。
まるでそこから先何もない、何があるとも保証されないガケを飛び降りる気分。
これが私を生むのだった。

いつでも、どこでも、誰といようが
今、できる、
私の再生法である。

よし!

大きな音、小さな音

音楽でいうp(ピアノ)という表現は
日本語で言えば「小さく」だけれど、
もう少し言葉を尽くすと、
膨大なエネルギーが詰まった小さな音 
ということだな。
f(フォルテ)というのは「大きく」だけど、
解放された音。
門が空いて、外に音が流れ出している。感情が、情熱が、エネルギーが大きな口から流れている。

フォルテの表現の方が容易いかもしれない。
音が大きいというのは力があるのでどうにでもなる。
だけどピアノというとだいたいがみんななめくさる。
小さいという言葉に囚われて、ちょっとつまらない表現になる。
小さく奏でることによって、音が死ぬ。
だけどホントは小さい音の旋律は
すべての感情や情熱が渦巻くビッグバンのごとしのエネルギーが内在した美しくストレスフルな場面なのだ。

かといって、そんなことを意識して表現するのでしょうかと、
こんな頭でっかちなことはない。
今日、私が気づいたことを言葉にしてみたわけだが、
演奏する時には
私の真ん中で演奏すること。それだけだ。
何故ならそんなバランス、私の真ん中がよく知っていることだから。
私はそれを信じるだけだ。

音に息吹を。

真っ白を真っ白でなくすること

眠れないので

あの頃のように

ノートを広げて、

白い紙に

向かってみると

困ったことに

何も書けない。

真っ白を

真っ白でなくするということは

思い切りがいる。

パソコンに向かう時間が

私の思い切りを鈍らせた。

あかん、あかん。

秋ですから

押しつぶされそうになる時がある。

まるでまるで私はありんこよりも小さな埃のようになり
ふっと風に吹き飛ばされる。

そんな時、私はずっと
消えてしまうのが怖くて、
私の透明な殻の卵の中に閉じこもってじっとして
やりすごしていたけれど、

耳を塞ぐよりも、聞きなさい。

目をつぶるよりも、見つめなさい。

いっそいっそ小さく小さくなって、うんとうんと小さくなって、
消えてしまえばよい。

朗らかに、散った私はあたたかい音の中に包まれて、

大きな大きな私とひとつになる。

怖がらずに、開いていなさい。

秋ですから。

日々の惰性

毎日同じ様に同じ時間に出かけたり、同じ電車に乗ったり、しているわけでは決してないのだが、
ただ毎日がやってくるというだけでぼーっとしているとあっという間に何やらの輪の中だけでの回転がはじまってしまう。
それを抜け出すには「創造」しかない。

なんでもいいから、例えば靴下のほころびを直すだけでもよい。
自分がこれをやろう、と思ってやること。
自分が自分の時間を作っているという実感が惰性を打破するように思う。
それが創造ってやつだろう。

テレビを見ると、簡単に時間を支配されて、あげくの果てには世の中のよいように洗脳されてしまうように、
世の中のことは大抵、うまいことそっちの流れに巻き込まれるように出来ている。
公共料金ひとつ、その引き落としだって、それから例えば予防接種とか、電車に乗ること、高速道路使うこと、なんだってそっちに向いている。
そんなことひとつひとつに憂いていても仕方がない。
それよりもひとつひとつ、自分が生み出していっていることを意識できることが
今こそ大事なのだ、と私は思う。

ほっとしてもいいからぼーっっとするな!!

長野に家を見つける

今年の夏過ごした木崎湖のほとりに、家を見つけた。
茅葺き屋根の古民家を直したもののようで、太くて黒い柱がズドンズドンと家を支えている。

水は山から引いていて、タンクに溜めて使用。
水道代はかからない。

畑も使ってよいとのこと。

2階の窓を開けると木崎湖、そして山。
湿気と寒さの対策をして冬を迎えれば、最高の家だ。

しばらく空き家だったので、少しずつ再生して行くのだ。

そこが、木崎湖だからかもしれないが、
東京生まれ東京育ちの私が長野に住むことが、
ちっとも引っ込む感じがしない。
田舎暮らしとも違う。

何か今までで最先端、そして最高に広いステージを駆け回っていくことだと思っている。
高鳴るぜ!!