2011年11月

美味しいこと

先日、息子の通う幼稚園で「食育」という講座のようなものがあった。
何をやるのかに興味を持って参加してみた。

初めは食育というものについての話だったので、少し難しく、退屈になった。
加えて前の日にちょびりと飲んだものだから、少々体がだるく、だんだんと帰りたくなっってきた。

しーんと聞いている母たちを見て、その日ゲストで呼ばれていたフランス料理屋の料理長さんが
「まずスープ飲みますか」
とスープを温めて出してくれた。
ポタージュスープだった。
朝、丁度旦那さんが作ったホワイトシチューを頂いてきたばかりで、その味もどこかにまだ残っているような状態だった。
半分うんざりしていた私はああ、スープまだいらないなんて思いながら、
ひとくち頂く。
もうひとくち。

ひとくちごとに目が覚める。体が起き上がる。こころが立ち出す。
美味しい。元気がどんどん湧いてくるのがわかった。

シェフが私に声をかけた。
「美味しいか」

「美味しい。。。!!」

「出汁は使っていない。野菜だけの味だ。なんで美味しいかわかるか。

。。。それは愛情だ。」

とひとこと言ってのけた。
その時、私はすっかり体中が満ち足りていて、こころが生き生きしている。

それから、シェフと台所に入り、
シェフはブロッコリーとカリフラワーと人参のソテーを作って、試食をさせた。
作り方は至って簡単、下ゆでして、フライパンに油をしいて焼いて、塩をふるだけ。
だけれどめちゃめちゃ美味しい。美味しくてみな目を丸くして、笑顔が溢れて、
席に戻った頃には、初めの静けさは嘘のように、部屋が華やいでいた。

シェフの言った愛情とは、ただ単にみなさんのために気持ちを込めてなんてものではない。
ひとつひとつの素材の息吹というか、生命力のようなものを最大限引き出す事を、技術とセンスでもって
全力でやっている。それは命というものへの敬意、つまり愛情であろう。
その愛が食べ物の命から、私の体の細胞、そしてこころへと波が増殖していくように伝わってくる。
食べるということは、本来そういう生命力の交換なのであろう。
それが美味しいということ。

シェフからは、農薬のこと、素材の生き返らせ方、甘みを引き出す事についてなど、それから
食べ物の「食べて」と言っている時というのを教わった。すごくわかる。
料理していて、その瞬間がある。
様々な素材のその瞬間を同じ時に持ってくるのが、
素材の切り方、下ごしらえの仕方、そして火加減なのである。
これは美味しくする魔法のテクニックだ。

そして最後に、
「食育なんていうとちょっと難しくなるけれど、私がいつもこころに置いているのは明るく、会話のある食卓ということです。」
と言った。そこにすべてが詰まっている。その通りだ。食べ物に敬意を払って、食べ物から息吹をもらうこと。それは自然と人を元気にさせ、笑顔や言葉が溢れ出すものなのだ。

何かを真剣に作り出しているということは、たくさんの理論よりも説得力がある。
大抵シンプルで、難しくないことが真実である。
料理がまた楽しくなった。

超アコーディオニスト

気付けば、アコーディオンを弾きはじめてから来年で10年になる。
10年弾いて、ようやっと楽器の方が私に笑いかけてくれるようになったことを最近感じる。
ピアニストはピアノのある場所へ行かなければならないけれど、アコーディオンはどこにだってアコーディオンを抱えて行ける。そんな簡単な動機で始めたアコーディオンだったけれど、その音色と蛇腹の快感にあっという間に魅せられた。魅せられたが、アコーディオンのようには全然弾けない。自分の歌う曲だけを弾ける形でだけなんとか弾いた。私はアコーディオニストに憧れていた。だからどこかで私はアコーディオニストだなんて言うのは恐れ多いといつも思っていた。楽器は音を出してくれるがなかなかこちらを向いて笑ってはくれない。私の呼吸と蛇腹の呼吸はいつもちょっとずれていて、音に魔法が降りて来なかった。

最近、蛇腹がパンとはじける。音がスピードを出す。
うたを乗せて行く。
私はアコーディオンを弾いているではないか。
そう、そしてそこにいるのはアコーディオニストなんてくくりを超えた、私であった。

一緒になるという事は、優越を超越する事だ。

アコーディオン最高だぜ!!