2011年5月

玄米

出すことを考える。

体に要らないものを排出する体を作るのにもってこいだというので、
おとといくらいから玄米を食べている。
まずは一日一膳から。全食は私もまだもたれてしまうから。

白米の大好きな芳介が食べるかが問題だったけど、なんとうまいうまいと大人一膳分くらい軽く間食。
よかった。
久々に食べた玄米、おいしい。噛めば噛む程甘くて、プチプチ感もいい。
楽しく食べていけそうだ。

萩でライブをしたときに一緒に飲んだ味噌屋さんのことを思い出して、味噌を届けて頂いた。
関東以北にない甘みのあるお味噌で、煮干し出汁で飲むのがお気に入り。
味噌汁はおいしい味噌で、丁寧に出汁を取って作ると、本当に格別なものになる。

玄米はお腹いっぱいになるからドカンとりっぱなおかずは然程要らない。
ぬかづけとか、ふりかけとか、梅干しとか、玄米を食べるためのものがほしい。

なんだろうか、この充足感は。
生き物を入れているという感覚がある。
食べられるものですハイハイとすんなりと入ってくるというよりは、
我こそは玄米と主張して入ってくる感じがする。
私と玄米のコラボによってつくられる私の体。
そんなことが意識できるだけでも玄米くん、あんたすごいかもしれない。

何か変だ

震災からもうすぐ3ヶ月。体の細胞がすべて入れ替わるのが3ヶ月って言われているから、そろそろいろんな現象が起こりはじめていい。

放射能は目に見えないからわからないって言うけれど、よーく五感を働かせれば何だか変なのがわかる。それを思ったのが丁度一週間前くらい。

植物が場所によって異様にでかい。
人より構造が単純だから少し早く出るのかな。
庭のミントはあじさいの様。巨大たんぽぽのはなしはよく聞くし、先日練馬を歩いていたら突然巨大つつじの植え込みの一角が歩道をトンネルみたい覆っていた。うちのハルジオンは木みたいになって、ビンボウの木はまずい!といいながらそそくさと抜いた。
遠くから神社の場所がわかるように、植物の様子で放射能の高い場所が見えるようになってくるかもしれない。

そして自分の体の変化を強く感じる。疲れやすい,突然眠気に教われて倒れるように寝る、外を歩いた後顔がしばしばする、雨に当たった後頭皮がピリピリする、尿の匂いが変、肘と膝の皮膚がボロボロ、などなど。。。

気にしすぎるのはよくないと思うが、そういう変化は意識したい。
こっちが本当、こっちが嘘、隠しているとか、それも嘘とか、情報が錯誤する中、結局のところ、最後に頼れるのは自分の感覚と自分の声だ。数値は目安だからね。体の検査もそうだけど。

しかし!だからといって私は反動で行動しない。
放射能のための生活なんぞしたくないさ。
こういった状況を逆手に取って
いろいろ研究して、編み出してゆくぞ。

生活

今日はまず、朝のお祈り。

そしてご飯のメニューを考えます。
美味しくて、元気になる食事。

こんな時だからこそ、深められる要素は生活の中にたくさんある。
そんな一日の始まり。

あれから4年

芳介が4才になった。ほうすけ3はほうすけ4になるのだろうか。。。

早いねーといわれるが、あまり早いとも思わない。
だからといってもっと経った気もしない。
芳介と私の間にはぴったり4年分
妊娠してからを考えると4年と7ヶ月分が詰まっていて、
そしてそれを今日も紡いでいる。

そんな風に思う。芳介、4才おめでとう!

一点に 還る 

もやもやするのは悔しいことに、大抵自分の中の問題である。
もやもやする原因が、例えば誰それにあって、
誰それのいろんなところが見えて、腹が立ち、
それが特に私との付き合いに深く関わっていて、どうしてあなたはとばかり言う。
そうしていくうちに、相手の想いと私の想いの温度の違いに気付き、がっかりする。
というのがよくある男女のそれである。

責め立てて終わることも出来るのだが、あまりいい気持ちには結局なれない。
悔しいことに、そんな風に見えてしまう自分の心の在り方と、そういう関係を作っている片側であることを認めると、がっかりとした自分が案外晴れやかになる。

そして、思うのだ。じゃあ、私が変われ。

限りなく何でもない。
何にでもなれる、静かな水面にも、激しい炎にも、土臭い人間にも。
いつだって新しい。
いつもそんな風にありたい。

私が新しければ,あの人との関係だって新しいのだ。いつだって。

ひらけ、ひらけ

長野へ行った。

朝目覚めると、久しぶりに木々に呼ばれた。
外に出て森に入る。
見上げた木々が

「ひらけ、ひらけ、ひらけ」

と一斉に歌っていた。

大きくおおらかに歌っていた。

その晩から次の朝に掛けて、
私はこころを全開にしていなければならない出来事が起こった。

心のうねり、悶え、悲しみ、嫉妬、あらゆる感情を呑み込んで、ひらく。
そうするしかないのだ。

ひらいてひらいてひらいて、ひらきると、
全部が満ち満ちた。
それはもの凄い、快感だった。

からだもひらいて、みずみずしく、
すべての感情が快感に流れ込んでゆく。

生きながら死の快感を味わうとは、
ひらく ということなのだ。

ひらいてひらいて、ひらきつづけていくことだ。