2011年6月

よもぎ、復活する。梅、発酵する。

先日、長野で摘んで来たよもぎ。根こそぎとってきたが葉っぱだけをむしって丸坊主に。
そのことをブログに書いたところ、朝採りよもぎを発酵させると、たくさんの光合成細菌が培養されて、そいつらは放射性物質を取り込んで生きていくとかで、結果放射線量が減るとのこと。

*参考
32】光合成細菌は放射性物質を捕食するために鞭毛で移動していきます。放射性物質が菌体内に入れば、α線は出てきません。また放射線がエネルギーとして利用されて放射性物質は「劣化」します。放射性物質が微生物の体内に取り込まれて「劣化」するとは、半減期が縮小するほどではなく、微生物の電磁誘導作用に「感化」され電磁粒子を放射してしまう現象です。

【33】微生物や植物の放射線や放射能に対する耐性は強力です。のみならず、微生物や植物は放射線や放射能を生命エネルギーとして利用しています。その利用の仕方は、核種の高エネルギーの一発的瞬間的発射ではなく、時間的に遅延させて少しずつ発射させるという仕組みです。

だそうで、うむむむと思って庭に投げ捨てられていた丸坊主よもぎ、とりあえずまだ生きている。葉っぱもないのに生き返るかどうかという想いで土に埋めてみた。

するとどうだろう。
10日後には立派に復活。

空中放射線量も助けてか(?)よもぎの光合成細菌は元気な模様。たくさん生い茂ったら培養してみようと思う。

さて、梅をただ瓶に放り込んで置いておいたら、シュワシュワといい音立てて発酵している。と隣人。その発酵エキスを蜂蜜で溶いてソーダで割ったら、美味しい梅ソーダになった。
いつ見ても発酵する様は嬉しい。香りもとてもよい。生命の生き生き感が気持ちよい。

この人たちの小さなエネルギーが実はとっても重要なんじゃないかなって、思っている。

愛しのハライソ

私が恋して止まない珈琲に
今回の瀬戸内ツアーでまた会って来た。

3月に地震があり、4月に珈琲人が複雑骨折。
1月に会った時と、私の愛しのあんちくしょうは少し違っていた。
繊細に内側にどこまでも宇宙を広げる珈琲から
しっかりと現実の重さを呑み込んで、外側に広がっていく珈琲に。
更にスペシャル豆というのがメニューに加わっていて、
何もない地の、遥か遠い地平線につづく道に放り出されたような
未知の味だった。

また虜になってしまった。

paraisoの豆を買って帰ってきたが、
うちでペーパーで入れてもむちゃくちゃ美味しい。
丁寧に選別され、焙煎されている。
くそお、愛の味じゃないか。

遠い地平線を臨んで、珈琲を飲みながら、私のカケラを拾い集める。
ひとつ、ひとつ。

珈琲というものの概念が塗り替えられる

香味喫茶ハライソ

私の

私のあちこちに飛び散ったこころや体の破片を
拾って集めるようなツアーだった。
ずっと空っぽだったように思う私の格納容器に、
今確かに、ずっしりと重力を感じる。

青く光って、溢れ出す。

行ってみたら休館だった万博記念公園の前で、
手すりごしに太陽の塔を見つめる息子。また行こうね。

明日から10日間程ツアーなので、苗を少し大きめの鉢に植え替えて、ひとしきり庭を見て回った。

枯れ果てたなと思ったブルベリーから、いつの間にか若いシュートが出ていた。

嬉しくなって私のとても好きなホワイトセージのところへいくと、花がついていた。
去年はなかったことなので、これまた嬉しい。

下に落ちた葉や枯れかけた葉を摘んで、乾かす。
ネイティブアメリカンの人たちはホワイトセージで浄化するって言うけれど、
燃やすと本当に空気がリセットされる。私は好き。

小平から持って来たローズマリーもめちゃめちゃ元気。
葉がツヤツヤしていて香りが強い。

そして問題の巨大ミントもいよいよ生い茂り絶頂!

庭は大きく息づいている。
植物は本当にすごい。
せっせとせっせと、生きている。

よもぎ

長野でよもぎをつんできたので、葉だけ摘み取って干してみた。
よもぎ粉か、もしくはもぐさを作ってみる予定。
もぐさって、燃え草なんだってね。
よもぎのもぐさはお灸に一番だし、あの木の摩擦で火を起こす初めの火種はもぐさを使うらしい。
蚊に刺されたらヨモギを摘んで手で揉んで、さされたところに刷り込むとすぐ治る。
切り傷にも効く。
山でよく使ったな。

さて、久々に珈琲を煎った。
やっぱり煎り立ての珈琲は格別。
珈琲時間はこうでなきゃ。
朝の儀式ですから。。。

植物がたくさん助けてくれる。

仕切りがない

長野に行って来た。

昨年から足しげく通っている長野の木崎湖畔。何故私はこんなにもここにくるのだろう。

そこにいる人たちと行く度に深く結びついていくということは勿論。
地震後はきれいな空気、美味しい水に気持ちが安心できる場所としても大きな要因となっている。

「何故日帰りまでしてもここにくるの?ここの魅力はなんなの?」

と今回たくさん聞かれた。
それで私も改めて考えた。

始めて来た時、私は体調も今一で、ただでさえ土地に馴れるのに時間がかかるので心も揺れ揺れ、いろんな自分がどどうと出て来てちょっと大変だったけれど、そんな状態で木崎湖を見つめているうちに、気がつくとパカっと心が開いていた。
何にもない、だから可能性がどこまででもある。そんな自分の状態が嬉しかった。
木崎湖とはそんな不思議な場所で、来れば誰もがその感じを感じれるだろう。
ここに焦がれて本当にたくさんの人がいろんな理由で訪れるのだが、この不思議な木崎湖の力があってだというのは間違いない。ずっとずっと昔から、そういう場所だったのだと思う。

そんな風に考えながら、帰りしなに私の心の友であり、大町の鍵となるユッキィの新居に訪れた。
それが本当におったまげる家だった。
でっかい家なんだけど、仕切りがない。
どかーーんと大きな空間。階段を上ると広い廊下といったらいいのか?どうやらその廊下の奥に寝る場所がある。更にロフトを作るとか。でも吹き抜けとかでもない。
部屋とか廊下とかロフトとか吹き抜けとか、そんな概念は一切ない。
でもがらんどうなんじゃなくって、だからこそ、いつだってどうとでもできる、
どんな風にも生み出せる、そしてたくさん想像力で遊べる家。
思えばここが台所、ここが居間、ここが書斎、ここは私の部屋だなんて、
線を引く必要ないのだ。そこで集まれば居間になり、そこで仕事をすれば書斎となり、気に入った場所を見つけて自分の部屋にしたらいいし、プライベイトが欲しければ布でもたらせばいい。
土地に線を引いてこっからここが俺んちだと、日本が細かく別れちゃったずっと前の、
それこそ縄文の精神だ。

ああ、やっぱり素敵。
ここにいる人は、自然が大事だとか、古代からの感覚を研ぎすますだとか
そういう言葉の前に、
それが当たり前の精神で毎日を送っている。
木崎湖とはそういう場所。大昔からのそれがずっと今も息づいている。
そこが私の木崎湖に足しげく通う理由。

家は3回建ててやっと住みやすい家が建てられるというけれど、ここはそんなことないね、といったら、「そだね、不満なところは何一つないかな。何にもないから。」と言っていた。
この家こそ木崎湖の精神である。

夏に木崎湖畔で一ヶ月間行われる原始感覚美術展に彼女と組んで参加します。
一津遺跡にて市を立て、私と熊坂くんと、演奏します。
今回はバッキーとささらほうさらの安田理恵を呼んで。
詳しいこと決まりはじめたらまたお知らせしますが、
是非とも長野の美味しい空気と水と眺め、そして木崎湖の息吹に触れに来てもらいたい。

原始感覚美術展
http://primitive-sense-art.nishimarukan.com/

木崎湖のおそばやさんー縁川商店blog
http://kizakiko.269g.net/

ささらほうさら写真ブログ
http://sasarahousara.blogspot.com/

PC時間

昨晩、息子と一緒にもの凄く早く寝てしまったので、今朝は4時に目が覚めた。
これはしめたもんだと起き上がり、いつもまずチェックするPCを開こうとしたが、
あまりにも目覚めがよく、外も天気がよくて、
この気分をまたPCから得るいろいろな情報で消したくないと思った。
今朝は結局PCを開かずに過ごした。

するとどうだろう、私が「やることMEMO」に書いてある殆どのことが、朝の2時間くらいに出来た。ここ数日なかなか消せなかった項目がどんどん消えていった。
気持ちよく一日がすべりだしたので、そのまま今日はアタマがグルグル回転して、今までなかなか手をつけられなかった渡り廊下までピカピカのすきすきになった。

PCの前で過ごす時間について考えてみることにした。

震災後、うちにはテレビがないので、あらゆる情報を得るのはPCからであった。
震災直後はnhkオンラインは付けっぱなしだったし、一番の情報を得るのはtwitterで、
情報は早いし、いろんなことが知れるし、自分がどう動いたらいいか、いつでも判断できるように
常に情報を気にして過ごした。
そのままtwitterはいつも常に立ち上げて、気にする習慣がついてしまった。

そんなにPCの前にばかりいるわけではないが、何かの作業の合間にPCに座ってはチェック。
それがたとえ5分だったとしても、私が「今日はこれをやろう」と掲げたものを実行し、
現実に落とす作業というのは集中したエネルギーがいる。
それが少し潜ったら浅瀬に戻り、また少し潜っては浅瀬に。。というように、
ぐぐっと深く潜っていって深海のそれを採ってくるにはなかなか及ばない、
私のエネルギーは遠くの方で半透明のままフワフワ漂っている、そんな感じであったのだと思う。

アタマで「あれをやろう」と思うがそれがちっとも現実に自分の手のひらに降りて来ない、これくらい虚しいものはない。

しかも、その情報は殆どが原発やら放射能やら、そんなことなので、気分もめいる。

たくさんの情報のおかげで、今自分がどんなことをしたらいいのか、判断の材料となるのは確かだが、ではいざ、それをやる段になって時間が足りないのは、このPCに向かう時間の在り方が随分と関わっていると改めて思った。

これからはPCの仕事以外では午前中の珈琲時間に少し、それから夜に落ち着いたら。
twitterは随時は立ち上げない。つぶやくべきことがあるとき、それから基本この一日2回のPC時間に情報をチェックする様にしようと思う。
こんなこといちいち決めなきゃいられないのも馬鹿馬鹿しいが、何かだらだらと仮想現実の世界に入り浸ってしまいがちなのがネットの魔法で、現実に行動する充実感はひとつも得られないのは確かである。特に今は、ずっと見ていたからって新たな情報が入るわけでもなく、一日2回で充分。あれこれ考えてめげるよりも、どんどん行動して心を充実させることだ。

調べたいことが浮かんだら忘れないようにメモしておくことにしようっと。