2011年9月

終わり

たくさんのことがコトコトと音を立てて
時には大爆発、時には流れるように、時には胸をぐいっとえぐりながら

そうやって消えて生まれて、消えて生まれて

終わり

そうさ、それは終わりじゃないのさ!

横たわって眠ってしまいたいけれど
大きなうねりに呑まれて沈んでいってしまいそうだから、
動きます

服の整理からやるか
この家と、もうすぐおさらばだ

麗しの珈琲 vol.3

あああ、またすごい珈琲に出会ってしまいました。
今回はアイスコーヒーです。

水出し珈琲 by フジイコーヒー

ぽたぽたと水が垂れること8時間
それはできあがるんだそうです。それもたった6杯程。
開店前にフライング インした私は出来立て水出し珈琲をあやかってしまいました。
口をついて出た言葉は

「甘い!!」

この珈琲の甘みに、私はズキュンとやられてしまうのです。
珈琲の神話、ヤギ飼いの男の子が、ある晩ヤギがいないので探してみると、
ヤギは森の奥になっていた赤い実を食べて踊り狂っていた。
その赤い実こそが珈琲。男の子も食べてみると、元気が漲った。
この実が持ち帰られて、街の司祭たちは、赤い実を食べて夜な夜な不眠不休で祈り続けられた(アフリカのはなしだから、その祈りって結構激しいに違いない)。
そしてやがて珈琲になるんだが、
きっとこの元気が漲る不思議な赤い実は、どこかのシナプスを開通させてしまう独特の甘みを持っているに違いないと私は踏んでいる。

この甘さを、煎った豆から抽出できる人は、はっきりいってシャーマンです。
はらいそ珈琲、フジイコーヒー!!

とテンション高くなってしまいました。
フジイコーヒーは15時から下北沢無寸草とづづでやっています(月、火定休)。

ところで水出し珈琲ってどんな機械なのか、結局見れなかったので調べてみました。
どうやら、こんなのとか

こんなのとか。。。。

実験器具みたいだ。いいねー。
昔の歯医者さん思い出す。大好きだったわ、瓶とか、バーナーとか、トレーとか。。。
わくわくします。

震災後、女がパーになった。

「震災後、女がパーになった。」

宮城のとある方が、酔いの席で放ったお言葉。
「うちの嫁がいい例」と。
その方の嫁は、震災後地震オタクと化したそうな。
地震予言関係のブログを見あさって、これは適当、これは本当のこと言ってる、これはまあ信じられるなど次々と選抜し、当のご本人も地震が来る前は耳鳴りがして、地震を予言する。
私にもある夜、「今晩は満月だし、くるかもしれない」と地震のぢの字も書かずに、さらっと他の話題に乗せて嫁さんがメールを送って来た。その明け方、久々に確か茨城だか福島辺りで震度5弱のでかい地震が来て、びっくりしたことがあった。
「耳鳴りと地鳴りがするんだよねえ」と嫁。
しかしその度に地震が来るかもと忠告される夫の方は
「もう震度3くらいの地震で騒ぐのはやめてほしい。震度6クラスの揺れが来るときになったら助かるが、3ごときでいちいちジタバタしないでほしい」
と男発言。

その話で、そこらにいた男どもは、そういえば震災後どこそこの女から何度も物資支援とその訂正メールが来て頭に来たとか、感情で動き、パニクりすぎだとか、盛り上がっていた。

わかる。

女の私からいわせると、やはりパーになったのかもしれない。

彼女はもともと、いろいろとこの世の物、あの世の物が見える人であった。周りに大変気が回って、考えを述べるときも、行動するときも筋道だっていて、夫も話のできる嫁だと思っていたのだろう。もちろん、今でも立派に筋道立っているが、いかんせん地震のことに関しては開いてしまった。

そう、開いてしまったのだ。パーーーーっと。

だって、あの揺れ、津波、地球があんな風に刺激して来たら、
私らは妊娠の時に体験するような、自分の源みたいなところがぶわーーーと膨らんで、
到底かなわないと直感するのだ。

彼女は今までも直感して来た。だけれどそれはこの現実社会に於いて、まるでオカルトだった。
だから、うまいこと付き合っていた。

でもそれ以上の強い力がきて、社会もぶっ壊れた同然となれば。。。
パーっと開いて当然だろう。

私に関しても、そうである。
一番私がやってこなかった、「だってそう思うんだもの」をやるようになった。
だって何だか嫌だ、なんだかそうしたら良いと思う
なんてことは通用しない、なんで嫌なのか、なんでそうしたらよいのかちゃんと説明できねばならないと思って来た。しかし、これはまぎれもなく、ただいやで、ただそうしたらよいことなのだということがわかった。こみ上げてくる物なのだ。それに従うと実に、自分というものがシンプルにこの世に存在し始める。
自分は土の上に立って木みたいに呼吸しているだけだ。
自由で、楽しいじゃないか。
女の自然な姿はそれなのだと思う。自由で、楽しい。これがあれば大きな海のようにいられるのだ。

では女は自由で楽しく、おおらかにいればいいのかというと、
よくあるのが女が勝手に楽しく、下品になるか、もう事実無根にぶっとんでいくか、はたまたヒステリックに思い込んでいくことである。
これは本当にパーになりさがったと言ってよい。
女というのは、おまえパーだという男の存在があって、初めてパーが開く。
女が女だけでよいと思い出すとろくなことがない。
別にそこに男がいなくったっていい。パートナーがどうとかそういう話でもない。
この世には男と女が存在すると言うことだ。
その男の存在を、自分が立っている場所に感じられているかどうかである。
そして男は、女がパーであればある程、どんどん調子に乗って力がわき出してくるあんちくしょうである。女を排除した男どもなど、小さな箱の中でぐるぐるまわっているだけである。

そういう風に出来ている。
パーとおあんちくしょうでどんどん膨らんでいけばよいではないか。
たくさん壊れて、たくさん流されて、その隙間から、強い強い芽が生えはじめている。
そんな風に感じる今日この頃である。

生まれる

長野では空気が生まれていた。
どこそこかしこで。
私の吐いた空気が、すううっと呑み込まれて、
酸素に変わっていくのが感じられた。
巡っている、巡っている。

そこには当たり前の生活があった。
食べて、眠って、笑って、作って、纏って、話して、泣いて。

関東に戻ると、空気の循環は蓋をされ、
当たり前の生活をするためにエネルギーが必要なことがわかった。
それは直感を信じるとか、木々の声を聞くとか、そういったことが特別なことになってくるということ。
意識する人が特別な人になってくるということ。

私の音楽はそういったバックグラウンドの中で生まれてきた。
蓋をされた循環に代わるものを見つけなくては窒息してしまいそうだったから。

だけれど、もっと当たり前のものなのだ。

うたうということは。

うたうということは、うたうということに過ぎない。

私はうたっている。

長野の山に抱かれて、私が生まれた。
呼吸の循環に従って、当たり前のように、生まれた。
すべてはうたっている。

たくさん、溢れてくるよ。