2012年4月

私の場所

埼玉の空は広くて広くて、
越して来た時は好きじゃなかった。

旦那さんとその家族くらいしか知っている人がいないし、
東京を追っかけつつも、東京でないことに安心してのんびりだらりとしているところとか、
そのくせ妙に文化気位が高いのも気に入らなかった。

妹や友達が近所に越して来たりして、少しずつ楽しくなり、
息子が幼稚園に通うようになって、またひとつ広がりを持った。

だけど、私の場所ではない、とずっと思っていた。
だから、長野に行くことを決めたときも、ここを離れることになんの寂しさもなかった。
もともとあちらこちらを渡り歩いて演奏しているわけだから、
また、いつでも会えるよというのが私のスタンスだった。
寂しがるのは相手の方ばかりだった。

ところが、もうすぐ長野に越すという3月に、
私の居場所を見つけてしまった。
あんまり埼玉を小馬鹿にしていたので、神様が杖を降ったのかもしれない。
息子の通う幼稚園は私が結婚式を挙げた教会の付属幼稚園で、
その幼稚舎の母たちと、教会の音楽会に出演したときのことだった。
有志という形で集まった母はたった6人で、
讃美歌を私がアレンジして、歌ったのだった。
このくらいできればいいだろうと私が設定していたくらいの出来になったとき、
「やるならクオリティをあげたい」との声があがった。
私はそういうことならと、全力で向かった。
○○くん、○○ちゃんの母たちが、どんどんひとりの女性になって、
本当に素敵だった。もちろん演奏もとっても素晴らしく、最高の拍手をもらった。

息子も私も大満足の幼稚舎と、
母たちとこんなに作っていけるっていう可能性と、強く深い結びつき、
そして私自身を全力で発揮する場があること、
完璧な光の柱がどどーんと私の中に通ってしまったのだ。

ここで、やることがある。
ここに、私の場所がある。
そんな風に私の中の私の声が大きく叫んだ。
息子が幼稚園を卒園するまで、ここにいようと思った。

しかし、長野で始まっている現実もあり、
私たち家族の在り方についても、
いろいろ考え、話し合い、やはり長野へ行くことを決意するのだが、

まるで身を引き裂かれるかのような、
ひどい苦痛を伴う作業で、
おそらく母を亡くしたときくらい、
涙を流したように思う。

辛かったが、旦那さんのお母さんに私がこの想いを話せたこと、
そしてそれを理解してもらえたこと、それは暖かく嬉しいことだった。
そして幼稚舎の母たちも、たくさん話をして、一緒に時を過ごしてくれて、
暖かすぎて切ないが、でも

埼玉という場所を特別な場所に思えるようになれたことは、嬉しいことです。

まだ、思い出すと胸がぎゅっとなるけれど、
それはこれから長野で始まる新しい暮らしの中で、
きっと生きていくことなのだろうから。

長野の空は広いけど、
山がどかーん!とデッカすぎて、
いろんなことが真っ白になる。
そういう場所。土地が私を小さく小さくしてくれるから、
気持ちがとっても自由になる。

すべてに、ありがとう。

一部か、ひとつか

私はあなたの一部になりたいとか、
私の足りない部分を満たすのはあなただとか、
センチメンタルに思っていた時代もあったが、

男も女も相手の一部などになること程、
惰性を産み、時間を止めるものはないと、今は思う。
一部になるなんて自分の弱さを相手に埋め込んだ甘えにすぎない。

男と女は違うのだから、
対峙するしかない。

対峙して、相手を鏡だと思ってじっと見つめて、
自分を見つけたとき、
どんなにあがいても一緒になれる日は来ないとわかって、愕然とすると同時に、
はじめて男と女はひとつになる。

ひとつになるっていうのは寂しくも計り知れなく膨らんでいくひとつ。

人は涙を流しながら、そのエキサイティングを求めつづける生き物なんだろう。