畑をやってみている。

今まで食べてきた野菜。
東京の小さな庭で作ってきた家庭菜園の野菜。

私の中の「野菜」というものがどうも本来こういうものではなかったと思い知らされる毎日である。

野菜が、太い、強い、その存在感たらない。
生命力溢れていて、みずみずしく、何より味がしっかりとある。
美味しくて美味しくて、がんがん食べているとちゃんとその季節にあった体になって、元気になるのだ。

そんなカルチャーショックを受けながらも、ここいらの先輩方の作る畑なんかを見ると、なおショックを受ける。野菜って。。。木じゃんか!!!

ナスの木、トマトの木、ささげの木、どわっっと畑から、ニョキニョキと畑から生えている。そうそう、生えている。ドカーンと生えていていて、そこにたわわに土の子たちが実っている。そりゃあ、長野県の子供が「じゃがいもみたいだ!」と思うわけだ。
私が思っている野菜って、なんか間違ってる!

私の畑はどうもコジンマリとしていて、まだまだ東京のお庭なのだ。
これは、ここで作った野菜を食べて、土をいぢって、私の深い深いところまで土と野菜の生命力が到達しないと変わらないものなのかもしれない。
ここの土がどんな呼吸をしていて、水がどんな風に作用していて、天気がどんな色合いでってことをまだまだ知らない。所詮ああ、きれいだな、いいな、って思ってるくらいなのだ。

だから面白い。どの畑を見ても、全部違う。畝の作り方から、配置、実のならせ方も、それぞれの作り手の心象風景のようだ。豊かで、美しい。生命力に身を任せて、野菜たちがごろごろと踊ってる。

自分がそのものに対して、本当のところどんなイメージを持っているのか。
それが世界を形作っているじゃないかと目を見張る。
音のイメージ、色のイメージ、服のイメージ、部屋のイメージ、
私のアタマ、固定してないか?
もっともっとそのものの力に委ねてやればよい。
そうだな、単純なことなのだ。
そうだそうだ、私の奥深く、もっともっと豊かなのだ。

畑の奮闘記は続く。
今、大根と野沢菜と小かぶ、白菜、ブロッコリー、カリフラワー植えています。
あとほうれん草、しゅんぎく、タマネギと植える予定。