外側から見ているとどれほどうまくいっているように見えるような人間にも、その内側にはちょっとした違和感や、不満が積もっていたりする場合がある。そのうえにタチが悪いのは、その違和感や不満に自分で気が付いていなかったりすることだ。いったい何が不満なのかが分からない。というか、不満であることにすら気が付いていない。自分ではうまくいっているつもりになっていたりする。そういう人が多数なのだと思う。当然ながら僕もそうだった。

演奏家として生計を立てていた頃のことだ。毎日毎日コントラバスを担いで会場に行き、満員電車で帰る。それなりに楽しかったが、ある時期からそれが窮屈になってしまった。自分の力で得たポジションだという自覚がなかったからだと思う。それであるとき「自分のやりたいことしかやらん」と決めつけて生きてみるという実験を命がけでやることにした。肩をいからせて。その頃の僕といえば、有名無名問わずいろいろな人と演奏できていたし、他人が羨むようなイイ思いもかなりしていた。そういう立場をかなぐり捨ててしまったものだから、外野から「頭がおかしくなった」と言われた。実際、それで疎遠になってしまった友人は相当の数になる。今にしてみれば自分のその行動は過度で滑稽だと思うし、ちょっと気恥ずかしい心持ちにもなる。恥ずかしいついでに白状すれば、その当時の僕は「本物の音楽」と「偽物の音楽」があると思っていた。ソレを分けて考えることの無意味さや、傲慢さには気が付いていなかった。幼稚な主張を自分いっぱいに体当たりでシリアスに実践していた。無知は強い。意味もなく口論したりした。

けれども、そういう風に過ごした日々は僕に意味を持たせてくれたと思う。それで気がついたこと、それがこの座右の銘だ。

さて「やりたいことだけをやる」と鼻息荒く誓ったあとのこと。自分だけは「本物」をやるのだと意気がって、信頼できる人を誘っては自作の曲を演奏して過ごした。信頼できる人だけを誘ったはずなのに、どうしても僕の思うようにならないことが多かった。「そうじゃない。音符は正しいけれども、そうじゃない。」そういうふうに思うことが少なからずあった。例えば、一流の音楽家で年配なのにタメ口をきく僕のことを快く受け入れてくれる懐の深い人がいた。そんな人との演奏でも、うまくいかなかったりした。リハーサルの時間が短かったから完成しないまま本番の演奏を向かえてしまって、苦いステージをした思い出がある。観客の皆さんは喜んでいたけれど…。かと思えば、僕の譜面を僕の思うとおりに、いやそれ以上に解釈してくれる若い人もいる。それも、この上もなくスムーズに。これはいったいどういう事なんだろう。

そういうことを繰り返していくうちに、どちらが「本物」でどちらが「偽物」であるか、なんていうことはどうでもよくなった。「本物」と「偽物」の境界線は引かれていなかった。あるのは「関係」と「タイミング」それだけだった。同時にいろいろなものの境界線を怪しむようになった。一流だとか二流だとか、素人だとかプロだとか、そういう線引きというのはなにか官僚制じみた味気ないものなんじゃないか。そういう疑念を持った。

僕の周りにはジャンルの中で活動している音楽家が少なくない。そういう人たちは決まって本国に演奏旅行に行ったりするのだけれども、それはどうなのだろうとか思ったりした。あえて例えてみるなら、ハンガリー人の和太鼓チームが日本に演奏旅行に来るみたいなものだろうか。べつに個人の嗜好のことだから、他人がとやかく口を出すものでもないが、その頃の僕には少しイビツに思えた。アラブの打楽器にダラブッカという太鼓があるのだけれど、その日本人ダラブッカ奏者がイスラム教に帰依したという話を友人から聞いたときは、僕の中で違和感が渦巻いた。ジャンルってそんなに重要か?と思った。どうしても、その線引きが必要だとは思えなかった。ロックだとかジャズだとかブルースだとかカリプソだとかショーロだとかスカだとかロックステディだとかアイリッシュだとかフォークだとかアンビエントだとかロマミュージックだとかクレズマーだとか即興だとか、なんだとか。その境界線を考えることそれ自体に虚しさを覚えた。

それにとどまることなく思考は続いて、最終的には「それが音楽であるとはどういうことか」という問いにたどり着いた。「音楽か、それ以外か。」そう考えてみた。その頃の僕にとってはもうすでに簡単な問題だった。

「ああそうか、全部音楽だったんだ。」

その境界線も僕の中で消えてなくなった。

僕はそれ以降、楽器を弾かずとも音楽家でいることを決めた。音楽家として周囲を眺めてみれば、そこかしこにリズムの悪さや狂ったハーモニーが聴こえてくる。どうも皆さん自覚が無いようだ。自分が交響曲の一部だっていうことを知らない。「引っ込んでる場合ではない。もっと歌え、自分の強いリズムを打ち立てろ。」と心の底では想っている。「お前ばかり出てくるな、この和音の情緒が台無しだ。」と胸の内では叫んでいる。あらためて口に出さないのは、それを言ったからといって良くなるとは限らないからだ。けれどバンドの面白いところは、そこなのだ。「強いリズムで演奏して」と言えばいうほど弱くなったり、ピッチがずれていることを指摘すれば、やたら慎重になって楽器が鳴らなくなってしまったり。逆にただ「もう少し笑ってみて」と言っただけで見違える演奏になったり。何をどう伝えるか、これはいい音楽を指揮するものにとっては重大な問題だ。結局は気が付いた者から先に自分で歌えるようになってくる。リズムが強くなっていく。要するに、自分で気が付くか気が付かないか、それが重要なんだ。

こういう視点で生きている僕は自分のことを「国語の先生」だとは思っていない。もう解ってもらえただろうと思うけれども、僕は「仕事」と「遊び」の境界線を持たないからだ。今生のすべてが己の人生であり、その時間のすべては「音楽」なのよね。なにしろ「人間のすることはすべて音楽」なんだから。

 

ぜってー音楽、やめねーからな。わはは。というわけだ。