例えば今の状況は、どうしようもない事柄から始まっている。
 もちろん人間の仕業でいろいろがややこしくなっている部分は大いにありはするけれど、元はと言えば人智を超えた事件だと思う。
 今まで人類は幾度となく危機的状況に陥ってきた。それをどうにかこうにか乗り越えてきたんであって、今回も不恰好に乗り越えることだろうと思う。それまでにいろいろな失望や希望が世の中を彩っていくんだろうと思いを馳せながらも、この70億人もの人間のすべてが文字の中に押し込められ何百年という時間に押し流されていく無力なイメージも湧いてくる。今回のこの災害に対しては、一人一人の力が最終的な結果を左右するはずで、つまるところそれは、どうしようもないことではないということになる。あまり好きな言葉ではないが「みんなの力」の最終的なバランスがその結果になるんだろう。「わからないこと」や「知らないこと」があることを知ってしまった我々は分かろうとすることをやめられないし、知ろうとすることもやめられない。それをやめられない責任としてある事象の対処を余儀なくされる。結局何かしらの力を得て、その結果を産みだす。その結果には苦しみもついてくるのだろうけれど。

 一方で、「歴史」の名のもとに文字に押し込められて流れて埋もれていった個人…いや、文字にすら残らず流れ消えていった膨大な個人たちに焦点を当てると、この人類が持つ力の限界を感じる。これを限界と呼ぶか、無限と呼ぶかは人それぞれかもしれない。人間は「時間」に対してだけは無力だ。信じられないほど膨大な「時間」を前にしたときだけ、人類は初めて無力になれるんだと思う。

無力でいいじゃないか、と思う。

 今、社会は「力を持て」「能力を持て」「貢献しろ」そういうメッセージを繰り返し刷り込んでくるけれど、それによって莫大なエネルギーが消極的に使われるようになっている気がする。ネガティブに「仕方ない」とか「本当は嫌だけど」とか。「わからないこと」や「知らないこと」をわかろうとしたり知ろうとしたりして、人間は無力じゃないと思うようになった。全ての人間が力を持っていて、何かしら有益な何かを生み出す義務をしょってしまっているように見えるけれど、本当にそうだろうか。無力でも無益でもいいんじゃないか。社会がそれを許さない。

 そうなのだ。無力であることや無益であることに突き進むことが逆に力になったり有益になったりすることもある。力をつけようと、意に反して生きることで縮こまり、命が死んでいくなら本末転倒だと思う。有益であることを目指すあまりその道に倒れている人を踏みつぶし、寄りかかる人を蹴散らして進んだ先の崖に落ちてしまうなら、エネルギーの使い方としてもったいないように思う。

 「力なんてなくてもいいよ」「役立たずでもいいから」という言葉がエネルギーを存分に吐き出して循環できる契機になる。そんな人間も大勢いると思う。

 

 自分で動くこと。

 これ以上に重要なことは個人の人生の中には無いと思っている。そのきっかけになる言葉の彩りが現代社会にはまだまだ薄いと思う。