これでいいや、と思うことがある。それは紛れもなく自分が思ったことであり尊重すべき心の声なのかもしれない。またそれとは逆に、これじゃだめだろう、と同時に思っていたりする。これも同様に受け入れるべき考えだ。では、どちらへ進めばいいのか。なんとも言えない人間の葛藤の模様だ。そんな時は危険な方へ行け。そっちが正解だ。そんな風に生きてきた。
よくよく考えてみたら、どうにも危険な道を選んだものだと思う。慣れない仕事、運動不足、寝不足、不条理に叩きのめされ、不寛容に腹が立ち、凡庸に打ちひしがれる。結果、終わりのない平凡な日々に精神を痛めつけられ、ついには耳が聞こえなくなる。自分で勝手に来ておいて、我ながら無様で見苦しい。それでもまだなお生きていかなければならないし、生きていたいと思う。まだまだ中途だと足掻いている。不格好ここに極まれりだ。
だとしても…、いや、だからこそ僕は、彼を肯定する。彼の目はいつだってこちらを見抜いているし、彼の言動は世界の在り様を立体的に表現してくれる。僕や世界がどんなに醜悪でみすぼらしい姿だとしても、問題は外見じゃない。本当の美しさというのは、その奥に隠れているものだ。どんな物事にも、隠された秘密がありそれを探るのが本来の冒険だったはずだ。そんなことを彼のまなざしは示してくれている。
いつからなんだろう。表面的に、または軽薄に、秘密めいたことを暴露し、冒険の神秘をキブン的に浪費して、それで安穏と満足してしまうようになったのは。それでもなお、秘密は秘密として隠されてしまうというのに。
隠されたものを探し、見つけだし、傷つくこと。これが今の社会には圧倒的に足りない。このポイントにこそ自己を肯定する力の源泉があると確信している。自己肯定感が低いと昨今問題になっているけれど、みんな表面をなぞるみたいな表情でしか付き合わないのだから仕方がない。上っ面だけなら、いくら眺めようとも何にもたどり着かない。いつ空気が抜けるとも分からないような浮ついた風船の上に立っているのだから、不安でたまらない。自分の醜さと対峙して、それを受け入れる。そこに初めて個人の精神が根付く。今、そういう契機がなさすぎる。
だから僕は彼の目を信じる。どんなにグロテスクな怪物が自分の中にいようとも、彼だけはそれを見抜いてくる。
そこに在る。
のであれば、それは認めなければならないだろうよ。