人の大きさとは、その器の大きさとはいったいどこで決まるのだろう。そんなことを考えながら生きてきた。知識の量だろうか、経験の数だろうか。どうもそれだけではない何かヒミツのようなものがあるのかもしれない。若いころから、そんな風に直感していたように思う。

この文章を読んでいる君たちは18歳だろうか。いわゆる多感な時期だ。いろいろな刺激に素直に反応して、様々なことを考えて日々成長している。自分では気がつかない程度にかもしれないが相当な変化だ。僕の方から見れば3年前とは大違い。随分と「人」に近づいてきたと思う。今の社会では、18歳で「成人」だとかいう。僕に言わせればどうにもクダラナイ。もちろん選挙権を持って、一人前として扱われることに反対するわけではない。けれど、あまりに「成人」の本質的な意味を無視しすぎてはいやしないか。立ち止まって考えてみると「成人」とはいったいなんなのだろうか。「人」に「成る」と書くからには、「ニンゲン」から確固たる一個人としての「人」になることだと僕は思う。逃れられない条件の下で、どう振舞うのかを自覚して決定して行動する。その行動によってひきおこされた現象を余すことなく引き受けて、また判断する。ある種の責任みたいなものを携えて生きる。そんな生き方に瞬間を賭けている人物こそ「成人」だ。そういう人物同士が社会生活を営むとき、それは豊かなものになるのではないかと思う。そうして周囲をぐるりと見渡してみると、今「成人」が少ない気がする。この社会には「成人」するきっかけが圧倒的に不足しているから、なかなかそのチャンスを見つけ出すことは難しいのかもしれない。神は死んだので、「成人」しなかったとしても誰も罰さないし、逆に「成人」したからと言ってだれも称賛はしない。もっといえば一見してそれは見分けがつかないから、そもそもこの社会ではもはや「成人」する必要すら、ないのかもしれない。

君たちの周りの人間関係はこれからどんどん変化していくはずだ。利害関係がより複雑になっていくから、今のように無邪気に人を嫌ったり、好きになったりできなくなるかもしれない。利益をもたらす相手を否定するのはなかなかに難しいし、疑心暗鬼に落ち込んでしまえば他人を肯定することなんかできない。でも僕は、今後の君たちについてあまり心配していない。この1年間、君たちを見てきた。自分勝手に動き散らかすやつがいて、気分が乗った時にだけ前向きになるやつがいて、まじめに授業を受ける者、テキトーに受ける者、最初から授業をうけるつもりがない者、一生懸命に課題に取り組む者、楽しそうな人や、いつもつまらなそうな人、小さくて巨大な悩み事に目をうつろにしている人、などなど。いろいろな表情を色とりどり見てきたが、どれもこれもそれぞれの素直な魅力があらわれていたのを思い出す。その自分の魅力に気がつきさえすれば、このあとの人生はきっと素晴らしいものになるだろう。(とはいっても、君たちのそのふてぶてしい魅力に、時折、僕もムカついたりはしたのだけれど…。)

今、この社会に「成人」が不足していると書いた。それは、「成人」するきっかけが個人にゆだねられ運まかせになっているし、「成人」しなくても誰もそれを咎めないからだ。年齢の方が向こうからやってきて「はいあなたは成人です。」とある日突然勝手に宣言されて、こちらもこちらでその気になって「ああ、私も大人の仲間入りか。」なんて寝ぼけた目で呟いてみたりする。なんとも呑気でホホエマシイ。しかし、それは単に社会が決めた味も色気もない契約なので、あなたの人生の豊かさやふくらみとは一切関係がないと断言しておく。真に「成人」すると全ての事象に奥行きがうまれる。日常の輝きの質が変わるといってもいい。そして、それ以降歳は取らない。これは本当のことだ。目覚める時がきたらそれとわかるようになっているから安心してほしい。「私はもう大人かしら、どうかしら」とか思っているうちはまだ「成人」していない。

僕は長い時間を自分勝手に過ごしてきたから、いくらか遠回りをして今君たちの時間をいっとき受け持つという立場にたどり着いた。その道すがらのことを少し書く。いつだったか、とても大切にしていたある人を裏切ってしまったことがある。そして、泣きながらそれを相手に白状したのを憶えている。明らかに僕に非があった。言い訳はしなかった。けれどそれはそれで当時の僕には正当な言動だった。その頃の僕は仕事が順調に増えてきていて忙しかった。はたから見たら順風満帆。僕の状況を羨んだやつもいただろうと思う。その実、僕の心の内側では塵のように虚しさが募り、鈍く疲弊していた。それで、自己不信に陥り、自分として立つことがうまくできなくなっていた。それが理由の全てというわけではないが、とにかく僕はその人を裏切った。その時期の僕にまつわる一連の出来事が僕の「成人式」だった。それ以来、僕は全ての日常が輝いて充実している。今日、この日も、だ。

さて、3年間、こちらからは見えない場所で、君たちにはいろいろなことがあったと思う。思いもよらないところから軋轢が生まれたり、それで喧嘩したり、仲直りしたり、疎遠になったり、白々しい嘘をついてしまったり、小さなことを気に病んだり、傷ついたり、癒されたり、好きなモノを見つけたり、急に興が冷めてしまったり、近づくことを恐れたり、遠のくことに怯えたり、「友達」ってなんだろうとか果てしない命題について考え込んだり、どうでもいいやと投げ出したり、うまくいったり、いかなかったり。この先あなたが「人」になったとき、この3年間の意味が裏返って、あなたを支え、また、傷つけると思う。過去は変えられないけれど、起きてしまった出来事の意味は唐突に書き換わることがある。どうにも都合よくできている人間様なので、どんな高校生活を送ってきたのだとしても、気に病む必要はない。後悔している時間があったら、進め。

まもなく君たちはこのモノクロで小さな四角い箱から出ていく。本当は君たちに伝えたかったことや、一人ずつに言いたかったことが、僕の中には山ほど取り残されている。けれど、これはこちらで勝手に洗い流して捨てておくことにする。僕は僕でこれからまた新しく進んでいくから。人の縁というのはまったく不思議なもので、ある時深くなったと思ったらもうそれっきりになってしまったり、気にも留めなかった人があるとき救世主として現れたり、そういうことが人生にはあったりする。だから、もし何かの縁で今後どこかでばったり出くわすようなことがあったら…(夢想してしまうことを許してほしいのだけれど)そのときあなたの目の輝きが「成人」した人物のそれであったとしたら僕は嬉しい。そのときはまた新たに会話をしたい。