地震の揺れは、多くの人を非日常に連れて行ったんだろうな。
その後の原発のこと。放射能、水道水。。。予想不可能な明日。
普段は興奮しない神経がずっと刺激されている。
人は非日常を求むのかもしれない。自分が生きていることを確認したいから。
それは死を意識するということ。
穏やかな日常を求めながら、非日常で自分を確認したい。
ネットが流行ったのはそのせいかもな。少しの間だけでも日常と違うところに行ける。
だけどそれはバーチャルにしかすぎず、やってもやってもリアルに自分を見つけられない。
そこに来て、この2週間はものすごい現実が押し寄せて来た。
そりゃあもう、祭りだろう。
祭りは本来生きるか死ぬか、どうなるかわからない、そこに飛び込んでいくという儀式だ。
根こそぎもぎ取られてしまった人たちは、そのまっただ中にいる。
宮城や福島の友達からの便りは、すごい。
地震が来た次の日に何を用意しておいたらいいか、メールが来た。
電池がなくなるかもしれないっていうのに。
その後も被災地を目の当たりにした話や、状況を語ってくれる。
そこからもらうのが元気なのだ。
こっちが元気や励ましを与えられるはずなのに、ずっと強い。
一瞬、魂が震え上がったこの辺りの人は、そこから先は情報にだけ怯えている。
テレビがない私でさえ、うっすらとそのひとりだ。
なくなるかもしれないとか、くるかもしれないとか、
そんな情報知らなきゃいいのにと思うが、一瞬震え上がった魂が、もっと震えたがるのだ。
だから見る。聞く。調べる。そこから押し寄せる不安の中で、自分をもっと確認したい、そんな気持ちが拍車をかけ、刺激を求め、行動に移す。
昔読んだアボリジニのある部族の話。
広大な砂漠を横断するときでも、食料を持ち歩かない、作物を植えたり、収穫もしない。
その日の食料は宇宙から与えられると確信して、砂漠を歩く。
宇宙が彼らを失望させたことは一度もない。
行く先には、必ず食べ物がある。
祈りに宇宙は常に応じる。そして、心から自然のあらゆるものを讃える。
行く手に鳥や動物が現れると、それは夕食のために現れてくれたということになる。
一日は祈りから始まる。その日の調和、自分自身、友人、世界に対して
感謝の言葉をささげる。そして願うことはその通りになって現れ、
それを感謝して受け取って感謝の言葉をささげる。
その部族は、自分たちの住む荒野に食物がなくなっていくこと、環境の汚染、
それは勿論、人間の生活の結果によるものなのだけど、
それをただ受け入れて、地球を去った。20年前の話らしい。
日々の今を信じて、今を遊んで、それだけ。
でもそれがすべてなのかもしれない。
その結果が滅びることになろうとも,関係ないということだ。
あらゆる情報よりも、こころの声がすべてなのかもしれない。
私はそこまで潔く、生きれるだろうか。
こころは、生きたいといっているけれど。
頭で考えるな。
とにかく、できることを思い切りやろう。