第一回 人間のポテンシャル

 

ポテンシャル=潜在すること。また、可能性としての力。

 

という意味で、

 

例えば、ちょっと前の時代まで、俵6俵持つ女性がいた とか

江戸時代の飛脚は野を越え山を越えながらの毎日フルマラソンだった とか

 

もうちょっと身近な話だと、今の小学生のちょうどおじいちゃんおばあちゃんの時代は、海の口の子供たちは歩いて学校(現平公民館)へ通っていたそうで、まあ、歩けない距離ではないけれど、毎日それは私は正直うんざりです。でもそれが当たり前だった。

きっとその時代、その生活の中で必要だったからこそ、できたこと、使っていた体の能力、こころの能力、というのがあるなあと思うのです。

今の時代はどうだろう、思えば私が子どもの頃は携帯電話などなく、友達との連絡手段は家に電話することだった。だから電話番号なんていくつも覚えていた。ダイヤル電話だったので、そのダイヤルの音の「はちーーーーさんーー、はちーーーーはちーーーーにいはちーーーーー」長さまで覚えていた。待ち合わせも決めた時間と場所にそこにいなければ、会えなかった。会えなくてもなんとかして、テレパシーでも使ったんじゃないかというような形でどうにか会えたりもした。でも今はいつだって携帯があるし、番号も登録しているし、簡単に、楽に、うまいこといくようになっている。ふと気付けばどんどん、自分の能力に蓋をしていっているんじゃあなかろうか、と思う時がある。それって自分をどんどん狭めていっているんじゃないかという気がしてしまうのである。

 

だからといって昔は良かった、昔のようになれという懐古な気持ちに走るのは何か違うように思っていて、どうにか今の時代でだからこそ人間の力を開いていく術があるのではないか、と最近思うのである。

 

きっと人間の、生きるもののDNAというのは蓋をされるとどこかの蓋を開けて、なんとか生き延びようとするもので、私の中の私が、そのように叫んでいるように思うのである。

 

そんなことをピアノの話も取り込みながら、このコラムに書いていけたらなあって思っています。